こんにちは、現役介護福祉士のさかもと ままる@mamaru0911です。
現在YouTubeで介護関連の動画も配信しています。
動画の方が分かりやすい話も多いので、是非ご覧ください!
以前はIT関係の会社を自身で起業し経営していましたが、43歳の時「無資格・未経験」で介護業界に転職し、現在は介護業界で今最も勢いのある介護派遣会社であり、トップクラスの高単価案件を豊富に持つ、コンプライアンスもしっかりとした優良派遣会社きらケアで「夜勤専従介護士」として働いています。
2020年1月に行われた「第32回介護福祉士国家試験」に無事合格し、現在は介護福祉士として有料老人ホームの派遣夜勤専従として働いています。
僕は異業種から「介護福祉・医療」の業界に転職してから今年で4年目になります。
その間、都内の総合病院から有料老人ホーム、特別養護老人ホームなど十数か所で勤務経験を積み今に至ります。
その中で「人の生死」に何度も直面してきました。
今日は介護医療の仕事に実際に関わった僕が、今思う「死生観」を書きたいと思います。

目次
「死ぬ事」とは何か?「生きる事」とは何か?
この大きな命題に、一言で正解を答えられる人はいないでしょう。
遥かな太古の昔から、人間はこの大命題に関して明確な「答え」を出すことが出来ていません。
もちろん有名な思想家や哲学者、宗教家などは独自の「答え」を導き出していますが、世界中の万人が納得する類のものでない事は明確です。
不思議だと思いませんか?
人は生きていく上で、常に「目的」「目標」を掲げます。
「何のために良い学校に入るのか?」
「何のために一流企業に就職するのか?」
「何のために仕事をするのか?」
人それぞれ、明確、不明確は別として自分自身の行動に何らかの「目標」「目的」を見出していると思います。
しかし、人として生きる最も根底である
「何のために生きるのか?」
という命題に対して、明確な「目標」「目的」を見出している人は実に少ないと思います。
人が
「生きる事」とは一体何が目的なのでしょうか?
「死ぬ事」とは一体何が目的なのでしょうか?
介護業界に転職して僕が得たもの
4年前、全くの「無資格、未経験」で介護医療の業界に飛び込んだ僕は、介護業界で実際に働いてみて実に多くのものを学び、得てきました。

その中で、特に大きなものがこの記事のメインである「死生観」です。
介護業界に入る前と後では、僕の「死生観」は大きく変わったような気がしています。
介護職とは「自立が困難になった人の介助」がメインの仕事です。
しかし自分の人生だけでは、この「自立が困難になった人」に触れる機会はそう多くはありません。
例えば自分の両親や身内が「要介護者」にでもならない限り、普通の人の生活に「介護」はとても縁遠いものです。
それがゆえに、いざ身内に「要介護者」が出るとその対応が全く出来ないのが普通の生活をしている人のほとんどだと思います。
介護職は常に「要介護者」の身の回りのケアをするので、当然ですが数多くの「自立が困難になった人」と接することになります。
僕の場合は、総合病院での内科急性期病棟の「夜勤看護助手」や看取りまで行う介護施設で多く働いてきたので「人の命の最後の瞬間」にも数多く立ち会ってきました。

その多くの経験が、僕自身の「生きる事とは何か?死ぬ事とは何か?」という「死生観」を大きく変化させました。
認知症の恐怖
介護施設で働いていると、多くの「認知症患者」と接することになります。
その理由は「認知症」こそ、自立して生活が困難になる一つの大きな原因であるからです。
逆に言えば、80代90代の後期高齢者になっても「認知症」にさえならなければ、人は自立して生活していくことが可能なのです。
有料老人ホームや特別養護老人ホームなどのいわゆる「介護施設」には、多くの「認知症患者」が居住しています。
それまで独居していた人、家族と一緒に暮らしていた人、様々な家庭環境がありますが介護施設に入居するきっかけはやはり「認知症」が多いと思います。
長年独居していた母親が、認知症で自立できなくなって「流石に心配になって」と入居を進める息子や娘たちも大勢います。
自分から介護施設に入居したいという人はそう多くはありません。
願わくば自分の家で、自分の人生を全うしたいと願う人が大半だと思います。
しかし現在、首都圏の特養は入居の順番待ちの大盛況です。
2025年には全国で認知症患者は700万人以上に達する
という厚生労働省の試算もあります。
僕は実際に多くの認知症患者と接し、その病気の怖さを実感しました。
認知症こそ人間の最も恐る病気
現在、日本はおろか世界中で「新型コロナウィルス」が依然猛威を振るっています。

「新型コロナウィルス」は確かに人を死に至らしめる恐ろしい病気です。
しかし現在すでに、それに効く「薬」や「ワクチン」が急ピッチで開発されています。
人類は今日まで、多くの「疫病」「病原菌」と戦ってきました。
その戦いに勝利したと確信できる瞬間は「治療」です。
どんなに恐ろしい病気であっても、その「治療法」が確立すれば、その病気に対する恐怖は大幅に和らぎます。
「認知症」は現在、その進行を遅らせる薬はあるものの絶対的な「治療法」は世界中どこを探しても存在しません。
認知症にはいくつかの分類がありますが、最も多い「アルツハイマー型認知症」の根本的な原因でさえ、今だに不明確なままです。
ざっくり言えば、高齢者の25%、4人に一人が「認知症」になります。
あなたは自分が「認知症」に絶対にならない、と言い切れますか?
僕自身はそうは言えません。
僕が実際に認知症患者と数多く接してきて、なぜ「認知症」が人間にとって最も恐ろしい病気であると感じるのか説明します。
人は「記憶」を残す為に生きている
想像してください。
来週、2020年5月22日に自分の大好きな人と食事の約束をしたとしましょう。
指折りその日を待ち望み、一日一日胸が踊ることを実感するはずです。
いよいよその当日になり、思った通りとても素敵な時間を過ごせた。
これこそ人が生きていて「幸せだ」と思える瞬間の一つだと思います。
そしてその先、何年、何十年とその楽しかった2020年5月22日に食事をしたことを思い出し、再び幸せな思いになることでしょう。
しかし「認知症」になって、その素晴らしい日のことを忘れてしまったら、あなたは一体どうしますか?
どうしますもこうしますも、記憶がなくなってしまっては忘れてしまった事実でさえ分からないということになります。
つまり「記憶を失う」という事は、極論を言えば2020年5月22日の食事は、しなくても変わらなかった、ということになるのです。
楽しい思い出や、代え難い経験をすることが「人生の目的」であるとするならば、その全てを「忘れてしまう」「認知症」という病気が、いかに恐ろしいものであるか分かるでしょう。
人が生きていく上で、最も重要なもの。
それは「記憶」だと僕は思います。
その最も重要なものを、すっかり消失させてしまう病気が「認知症」そのものなのです。
自分がどこの誰か分からなくなったとき
認知症の症状は、傾向さえあれど人それぞれです。
しかし大半の場合、その進行は目に見えて進んで行きます。
最初は自分の子供の名前がわからなくなり、やがて入浴の仕方や排泄の仕方、最後は食事の仕方まで忘れてしまうケースもあります。
「自分がどこにいるのか」
「自分は一体何者なのか」
それすらも分からなくなった時の、混乱と恐怖は相当なものだと思います。
介護施設の利用者には、当然それまで生きてきた歴史や生活背景があります。
多くの子供を育て、中には非常に立派な仕事を全うしたり多くの実績を社会に残したりした人も少なくありません。
しかし自立して生活していた時に、どんなに他者から見て「素晴らしい」という人生を歩んでいた人であっても、最後は「自分が何者であるかすら分からない」状態で亡くなっていく人もまた少なくないのです。
「自分の名前すら分からない」
状態になった時、それは果たして自分の人生と呼べるのでしょうか?
僕はそのことを毎日考えています。
僕にとっての「生きること」「死ぬこと」
色々と書いてきましたが、僕の今のところの結論です。
将来失ってしまうかも知れない「記憶」でも失わないかも知れない。だから日々の経験と感動と喜びを限りなく積み重ねる。「これ以上出来ない」というほど日々を全力で生きる。明日、来年、数年後に自分が死んでも悔いが残らないように。
全てが終わる時。終わってからでは何も出来ない。だから生きているうちに出来ることの全てを全うする。死ぬ瞬間に自分で納得できるように。
こんなところでしょうか。
僕は今年で47歳になりますが、病院に勤務していた時に自分より若い人が「生きたい」という思いも叶わず亡くなっていった姿を大勢見てきました。
幸い今日現在、僕は生きています。
だから僕はやれることをやれるだけやって生きていこうと思っています。
日本の平均寿命は、今なお年々伸び続けています。
しかし「認知症」や自立できない生活を10年15年と続ける人も少なくありません。
僕自身「自立して生活している時間」こそ「生きている時間」だと思っています。
介護職は「理想と現実」を明確にせず、建前の多い理念を掲げます。
一方でそれは仕方のないことです。
「自立できない人」
「認知症の人」
は死ねばいいのか?
という話になるからです。
今日の記事はあくまで僕自身の個人的な見解です。
僕のその思いを、決して仕事上で出しているつもりもありません。
しかし「自立して生活をする」という事は、人生を生きる事で非常に重要な要素です。
そういう僕自身も、いつかは自立して生活できなくなるかも知れませんし、認知症になる可能性も大いにあります。
そうしたら、このブログでこんな記事を書いていたことさえも忘れてしまうでしょう。
しかしだからと言って、何もしない、というのは僕は違うと思うんですよね。
もし僕自身が、この記事のことを忘れてしまっても、この記事を読んだ誰かが少しでも覚えてくれていれば、それはある意味で「行動した価値」だと思うんです。
「生きることと死ぬこと」
というテーマは、非常に大きく実際のところ解釈は人それぞれです。
僕自身は人の生死に間近で接する介護職に就いて、大きくこの考えが変わりました。
ある意味でこの記事は僕自身の「備忘録」でもあると言えます。
あなたが自分自身の「生きることと死ぬこと」について、改めて考えるきっかけになれば嬉しく思います。